世の中はチャンスで溢れている!受け取ることが出来ないのは器がないから
ブッダの教えは、回を追うごとに深みを増していきます。直ぐに納得できないかもしれませんが、頭の隅に入れて置くだけでも、大事な局面の智恵になることでしょう。
それでは、進みましょう。
(訓読)
善男子。水は倶に洗うといえども、しかも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠(けいこ)は海に非ず。如来世雄の法に於いて自在なるが如く、所説の諸法も、またまた是の如し。初・中・後の説、皆よく衆生の煩悩を洗除すれども、しかも、初は中に非ず、しかも中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖もしかも義各異なり。(現在語訳)
善男子よ。水はどこの水でも汚れを落としますが、井戸は池ではありません。池は溝、河ではありません。谷川や運河は海ではありません。
如来が教えにおいて自在なように、説かれる教えもまた自在です。初期・中期・後期の教えは、どれも、よく人々の煩悩を洗い清めますが、初期の教えと中期の教えは異なりますし、中期の教えは後期の教えと異なります。初・中・後の教えは、言葉の上では同じでも、その教義は異なります。
引用:蓮の道 無量義経 説法品第二
直訳すると、「同じ水の集合でも、井戸・池・溝・河・運河・大海は、同じものではありません。」だから、「ブッダも人の成長度合いによって、教えが異なっています。」になります。
しかし、ブッダの教えは、こんなに簡単なものではありません。
学校の授業で、生徒に勉強を教えても、受け取る生徒の能力によって学習度が異なり、テストをした時の成績に差が生まれます。
これと同じことが、普段の生活にも起きているのです。
たとえば、テレビでドラマを見ていても、「可哀そう。」「面白い。」という感情だけで見る人もいれば、ドラマの内容から「学び」を得る人もいます。
この違いはどこから生まれると思いますか?
受け取る側の感性や人間的な成長度合いによるものです。
ですから、相手を誉めたつもりでも、その人の感性に「妬み、当たり前感」が強いと、「バカにしてる!」と受け取るかもしれないのです。
反対に、感性に「感謝」がある人は、悪意のある言葉を向けられても、「私を磨いてくれているんだ」ととらえることができ、さらに積極性が増します。
このように、私たちの身の回りはチャンスであふれているのですが、「感謝」がないと、それに気づくこともなく人生を送ることになります。
幸福になるために重要なのは、外ではなく内面にあります。自分自身の器を大きくすると、何でも欲しいものを器に入れることが出来るようになります。