楽しく生きるためのブッダの教え

「ブッダの教え」を元にして、悩みや恐れなどのストレスを取り除き、残りの人生を楽しく生きるためのブログです。解釈方法は、哲学、脳科学、心理学、そして、直感によるものです。経典の直訳とは異なっていることをご理解の上お読みくだされば幸いです。

世の中はチャンスで溢れている!受け取ることが出来ないのは器がないから

ブッダの教えは、回を追うごとに深みを増していきます。直ぐに納得できないかもしれませんが、頭の隅に入れて置くだけでも、大事な局面の智恵になることでしょう。

それでは、進みましょう。

(訓読)
善男子。水は倶に洗うといえども、しかも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠(けいこ)は海に非ず。如来世雄の法に於いて自在なるが如く、所説の諸法も、またまた是の如し。初・中・後の説、皆よく衆生の煩悩を洗除すれども、しかも、初は中に非ず、しかも中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖もしかも義各異なり。

(現在語訳)
善男子よ。水はどこの水でも汚れを落としますが、井戸は池ではありません。池は溝、河ではありません。谷川や運河は海ではありません。
如来が教えにおいて自在なように、説かれる教えもまた自在です。初期・中期・後期の教えは、どれも、よく人々の煩悩を洗い清めますが、初期の教えと中期の教えは異なりますし、中期の教えは後期の教えと異なります。初・中・後の教えは、言葉の上では同じでも、その教義は異なります。
引用:蓮の道 無量義経 説法品第二

 

直訳すると、「同じ水の集合でも、井戸・池・溝・河・運河・大海は、同じものではありません。」だから、「ブッダも人の成長度合いによって、教えが異なっています。」になります。


しかし、ブッダの教えは、こんなに簡単なものではありません。


学校の授業で、生徒に勉強を教えても、受け取る生徒の能力によって学習度が異なり、テストをした時の成績に差が生まれます。

これと同じことが、普段の生活にも起きているのです。

たとえば、テレビでドラマを見ていても、可哀そう。」「面白い。」という感情だけで見る人もいれば、ドラマの内容から「学び」を得る人もいます。


この違いはどこから生まれると思いますか?

受け取る側の感性や人間的な成長度合いによるものです。

ですから、相手を誉めたつもりでも、その人の感性に「妬み、当たり前感」が強いと、「バカにしてる!」と受け取るかもしれないのです。


反対に、感性に「感謝」がある人は、悪意のある言葉を向けられても、「私を磨いてくれているんだ」ととらえることができ、さらに積極性が増します。

 

このように、私たちの身の回りはチャンスであふれているのですが、「感謝」がないと、それに気づくこともなく人生を送ることになります。

幸福になるために重要なのは、外ではなく内面にあります。自分自身の器を大きくすると、何でも欲しいものを器に入れることが出来るようになります。